2017年10月11日水曜日

「フェルマーの最終定理」 サイモン・シン著



とっても久しぶりの投稿だが、マウスキーにはよくある事だ。

何せ飽きやすい。

言い訳はさておき、早速本の感想を言わせていただきたい。

今回の「フェルマーの最終定理」も、何となく察知がついているであろうが、姉マウスキーの一押しである。

一度は父マウスキーに薦めては振られてしまったという敗北を味わいつつ、マウスキーにも薦め続け、もう数年も経ってしまった。

薦められたこの一冊を読もうと思った流れも、そのためスムーズであった。

この前に「暗号解読」を読んだのだが、それを読むと「フェルマーの最終定理」を読みたくなるように二つの作品はリンクしているところがあったからだ。

マウスキーがとうとう「フェルマーの最終定理」を手に取った時、長年の苦労が報われ、姉マウスキーの勝利が確定したのである。

この本の素晴らしいところは、凄く難しい内容で100%理解出来ていない人間の頭でも、大筋が理解できた挙句に、自分は頭がいいんだ、そう思わせてくれる文章である。

ざっくりとした本の内容は、フェルマーさんが残した定理を、解読するために人生を費やしてきた人たちの物語である。

フェルマーさんは、「解けるけど、紙が足らんかったけ、白紙にしといたわ」とだけ残していたため、大勢を長い歴史の中右往左往とさせるのだ。

この本の中に、哲学者のデカルトも登場するのだが、元々デカルトが好きではなかったのだが、本の中でもやはりよだきぃ(人間として終わり、どうしようもない奴の意)存在であり、ますますと嫌いになってしまった。

さて、そんな面白いヒューマンドキュメンタリーを交えつつの数学の解説など、面白さがN〇Kや、B〇Cどころではない!

サイモン・シンのマジックは、とどまるところを知らず、全く数学の事が理解出来ないでも、その数学について面白いと感じたり、フェルマーの最終定理がどう解かれていくのか、純粋な数学に対しての探求心をも感じさせてくれるものだった。

「頭が良すぎてごめんなさい」という気持ちを味わいたい人には、ぜひお薦めの一冊である。

2017年7月17日月曜日

「ボヴァリー夫人」 ギュスターヴ・フローベール・作



正に、マウスキーが読んだのはこちらの本である。

本当は、メリメの「偽ドミトリー」目当てで中古本を購入したのだが、ついでにボヴァリー夫人も入っていたので、まぁ、読んでみるかと軽い気持ちで読んだのが始まりだ。

読み始めてからしばらくして、物凄く後悔した。

何といっても、長かった。

小さな文字で二段になった形式で印字されているページで、ざっと253ページもあったのだ。

その253ページを読んでいる間、マウスキーは一体何が原因でずっとウダウダ言っているのか、本当に理解できず、理解できないまま読み進めていたので、全く理解できなかった最悪の読破となった。

ストーリーをざっくり紹介しよう。

ボヴァリー夫人という女の人が、理想とかけ離れた凡庸な男と結婚していて、夢を捨てられず、されど現実から逃れられないという、ロマン派のあるある葛藤物語だったと思う。

亭主が凡庸で幻滅、毎日退屈とか言って過ごしていて、浮気とかでハッスルしている挙句に、借金してでも贅沢品を買うのが大好きという恐ろしい女の話である。

最後は借金で首が回らなくなって、愛人の男にお金の無心をしに行くのだが、本気でそんな大金を持っていなかった愛人の男は「持ってないし、ごめんね」と言う。
ところが、ボヴァリー夫人はそれを許さない。
「本当は持ってるのに出す気がないんだろうが!」と、態度を一変させて、怒鳴り、暴れ、喚き、罵るのである。

もはや、百年の恋も一瞬で冷める瞬間だ。

結局、何もかも思い通りにいかなくなったボヴァリー夫人は自殺をしてしまう、そんな話だった。

夢と現実との間で葛藤したりすることを「ボヴァリスム」とかいう言葉が出来たりなど、当時は話題の作品だったらしい。

しかし、マウスキーは再読は100%しない。

それは、ボヴァリー夫人が恐ろしすぎたからである。

果たして、ここまで男を食い物のチョンする事が出来る女キャラクターが、他にいたであろうか?

悪女の代表格「カルメン」や「サロメ」でも、もっと人に真摯だったし、そこまで悪くないんじゃないかなと思ってしまうほどだ。

本当に、こういう妖怪みたいな女性には気を付けて下さい。ほんと、恐いですね。

そんな感想である。

2017年7月16日日曜日

「暗号解読」 サイモン・シン著




その名の通り、暗号の歴史と暗号の仕組みを解説した本である。

こちらは、またまたサイモン・シンの大ファンである姉マウスキーの一押しで読んだ一冊だ。
この本を読んだ直後の姉マウスキーは、「何か暗号文でメモを残しみろ」とか言い出してきたものである。
マウスキーが頑張って暗号メモを残したところ、「簡単すぎる」とケチをつけるほどであった。

ところが、読んでみて納得。

これは、暗号を自分でも作りたくなる!

しかも、モーラス信号の解説まであるのだから、モーラス信号を覚えて、モーラス信号で連絡をしてみたいという欲求すら沸き上がってしまうほどであった。

それ以外も、もちろん暗号の歴史という興味深い話だった。

ナチスのエニグマを解読した天才数学者のチューリング博士の話が上巻で締めくくられていたのだが・・・これは何ともズーンと気分が重くなる終わりであった。

カンバーバッチ主演の映画「イミテーション・ゲーム」を観たいという気持ちと、こういうものは映画よりドキュメンタリーの方がいいだろうな、という気持ちにもなって、まだ観ていない。

あと、エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」をまだ読んでいないのだが、読んでみたいという気持ちにもなった。
なんでも、ポーの暗号力がハンパではなかったという事実も始めて知ったからだ。
そして、この「黄金虫」という小説には、ポーの暗号力がありったけ注ぎ込まれているというのだ。
それなら、読んでみなければ・・・と、ぼんやり思っているところである。

サイモン・シンの本は、本当に面白い。

何であんなに難しい事を、こんなにサクサクと理解出来て読みやすく、面白い文章で書けるのだろうと、すっかり不思議に思ってしまうほどだ。

もちろん、感動した本の一冊である。
きっと、読んだ直後に暗号が作りたくてたまらなくなることだろう。

2017年7月15日土曜日

「黒猫」 エドガー・アラン・ポー・作



姉マウスキーが一押しの本がエドガー・アラン・ポーだった。

それは中学生の時で、さすがに気持ちが悪そうな本なので読む気にならず、断り続けていた。
しかし、姉マウスキーが音読をし始めてくれたものだから、もう読むしか道は残されていなかった。

そんなきっかけがあり読んだ黒猫。

大分昔なので、ずいぶんと忘れてしまったのだが、ざっくりとあらすじを紹介する。

主人公は動物好きな男で、妻も同様に動物が大好き。そんな二人は黒猫を買っていたが、主人公はアル中になって、飼っていた猫を虐待して最後には殺してしまう。

事後後悔というものほど救いがたいものはないが、この主人公は殺した後に後悔したので、殺した猫とそっくりな黒猫を飼って、今度こそ可愛がる事にする。

だが、主人公は、猫が昔の猫とどんどんそっくりになるという事で、やっぱり殺す事にするのである。
しかし、うっかりと猫をかばった奥さんを殺してしまう事になり、動物殺しからとうとう人殺しにランクアップするのだ。

とりあえず、地下の壁に奥さんの死体を埋めて、綺麗に周囲となじむように壁を補修し、いい仕事をする。

ところが、警察の捜査が入ってしまうのだ。

主人公は、そして、いい仕事をしたという事を、警察の前で自慢したい衝動に駆られ、やたらと「この壁ってすごくないですか」とかなんとか言い出し、頼みもしないのに自分が補修した壁を紹介しだすのだ。
そして、壁を壊して見せて、中の奥さんの死体を警察にお披露目する。
確か、その時、死体と一緒に黒猫の死体があったか、なかったか、そこは覚えていないが、お前が一番に怖いだろ・・・というのに、何だかそれを見て「ゾッ」としたみたいな感想を最後にしていたと思う。

まぁ、そんな感じの、ちょっとイカれた世界で、ダークで詩的な雰囲気満載の物語である。

雰囲気は嫌いではないが、動物虐待に上乗せして、動物殺しの話ともなると、その時点でマウスキーは生理的にアウトだった。

もしかすると、あまり好きじゃない話No1の「ごんぎつね」の次にくるぐらい、ちょっと苦手な話であった。

2017年3月29日水曜日

「車輪の下で」 ヘルマン・ヘッセ・作




一応、読む事は読み通した本である。

ヘルマン・ヘッセは、詩集を先に読んでいたので、小説も読んでみよう、というノリだった。

ストーリーは、主人公のハンスが、勉強とか、生活とか、自分のしたい事とか、そんな色々なものに頑張って苦労していく話である。

そして、何故だかマウスキーはこの本を手に取った時に、「車輪の下に押しつぶされる話なのだろうか?」と、タイトルのインパクトで思ってしまったのが悪かった。

ページをめくり、ページをめくり、頭をよぎる事といえば、「一体、いつ主人公は車輪の下に下敷きにされるのだろうか?」とか、「車輪の下に主人公が下敷きにされるわけではなく、誰かが車輪の下敷きになるのだろうか?」と、完全に「車輪の下」の呪縛に縛られてしまったのである。

おかげで、色々と大変そうなハンスについてを読みすすめながらも、なかなか集中出来ないでいた。

そして、読み終わった時に気が付いた。

誰も車輪の下に潰されるわけではないと──。

ヘルマン・ヘッセは詩人だし、直接的に車輪に潰される話で、「車輪の下に」なんてタイトルをつけるわけがない。

しかし、読み手側の気持ちは、確かに車輪に押しつぶされたかのような、重たくてたまらない気持ちにさせられたのは確かだ。

きっと、マウスキーはドイツ文学と相性が悪いのかもしれない。

とにかく、感想にしたらそれに尽きてしまう。

しかし、分からないが故に、まだまだドイツ文学へチャレンジしようと、今後も頑張るきっかけとはなった。

2017年3月27日月曜日

「カンタベリー物語(上)」 チョーサー・作




再び、上巻限定の読破であるが、実は中巻も途中までは読んだのだ。

こんな中途半端な読み方をした、「カンタベリー物語」は、今も少し無念に感じるところがあるので、もしかすると、最後まで読むかもしれない。

物語のあらすじは、カンタベリーに行くまでの道中、馬車で乗り合わせた人たちが、「色んな物語を1人ずつ話をしよう」と言い出し、それぞれが色んな物語を語る、という話である。

上巻は、なかなか面白い話が多かった。

詳しい事は覚えてはいないが、割と下ネタ話も多かったと思うのだが、何かの一文に受けてにやにやしたりする事もあったし、「サイテーだなこいつ」と思いながら読む話もあった。

ところが、中巻になってからは、ガラリと趣きを変えてくるのだ。

誰だかが、聖人がどうとか、心清らかな誰それが祈ってどうとか、素晴らしく高尚な物語を長々と語りだすのである。

ご立派すぎる物語を読む事に疲れきった後は、次に落差で下ネタ話でもくれば気力が戻るだろうと思っていたのだが、なんと、高尚な物語第2弾が始まったのだ。

もちろん、語っている人間は交代していたので、違う人物が語っている筈だった。

だが、もう、その人物の違いが分からない・・・と、いうほど似たような高尚な話が続く。

そして、不思議と立派な物語というものほど、長文なのだ。

読んでいれば、読んでいるほどに、睡魔の誘惑に勝てなくなり、本を閉じて居眠りをしてしまった。

そして、そのまま今現在まで読んでいない。

自分の程度の低さを知った物語である。

でも、まだまだ心残りがあるので、もしかすると最後まで読むかもしれない。

ただし、今読んでも高尚な物語のあたりは、死ぬほど退屈する事を覚悟しなければならないだろうが・・・。

2017年3月25日土曜日

「きらきらひかる」 江國 香織・作



はい、また出ました。

同性愛ネタ。

ストーリーは、アル中の奥さんと、同性愛者の亭主の物語である。

お互いが相手の事を言える立場でないので、割と妥協して仲良くやっていたと思う。

途中で、同性愛者の亭主の恋人だか愛人が登場したりもしたが、特に問題は起こらなかった。

そういえば、主人公の亭主と、その愛人と、他にも同性愛の登場人物がいたかもしれない・・・ゲイ率高くないか?・・・と、少し統計学的に心配になる割合だった。

ちなみに、この小説で面白いと感じたのは、ストーリーではなく、アル中の奥さんと、同性愛者の亭主が、一章ごとに交互に一人称で語るというのが面白かった。

それでいて、お互いがお互いの事をケチつけたり、愚痴ったりしている一人称というわけでもなく、ちゃんと愛情もあるようだし、特に問題ないんじゃないだろうかと思った。

あと、小説の中で印象に残った事といえば・・・アル中の奥さんが、シーツにアイロンをかけるというシーンがあった事だ。

シーツにアイロンをかけたりする方法がこの世に存在する事を、マウスキーは知らなかった。

こんな衝撃は、かなり序盤の方に書かれていたと思う。

感動するとかいう話じゃなかったけれど、小説ならではの味わいを感じた本だった。

2017年3月24日金曜日

「異邦人」 カミュ・作



有名な小説で、でも短編で、読みやすい小説である。

その割には、あまりよく分からなかった。

ストーリーは、感受性に乏しい主人公がいて、暑いという事を理由に人殺しをするという話だ。

何で殺したのか、というと、「暑かったから?」としか答えられないほど、感受性に乏しいのだ。

そんな主人公についてのあれこれを書いてはいるが、結局のところ、主人公は殺人の罪で死刑になる。

読んだ感想としては、「暑いから」と言って人を殺すなどというやつは、死んでも特に不思議はない。

寧ろ、死んで、生まれ変わって一からやり直すべきだと思った。

だが、もっと掘り下げて考察をしてみるべきだ。

例えば、逆説的に「暑い」という理由で人を殺して許される奴はどんな奴なんだろう?

そう考えた時に、思い当たる人物が・・・・そう、「ドラゴンボール」のフリーザ、その人である。

彼なら、「ちょっと退屈だったので」と言いながら、ビームで星を爆破したって、「さすがフリーザ」と言われる事だろう。

つまり、「暑くて眩しい・・・」といらだっている最中に、水しぶきをかけてきた人間がいたら、八つ当たり程度に「こっちは暑くて苛立ってるところなんですよ!」と言いながら、ビームで人を殺したって、納得の出来る結果となる。

そうか……「異邦人」の主人公の前世はきっと、フリーザみたいな人間だったに違いない。

だから、「何で殺したんだ!?」と、戦闘力がゴミ並の人間たちが騒いでも、鼻先で「全く、何を騒ぐ事があるんですか。暑いからに決まってるでしょう」と、余裕100%で思うに違いない。

しかし、フリーザみたいな気持ちでも、フリーザほど強くない「異邦人」の主人公は、逮捕されてしまい、法に従わなければならなくなる。

その結果、「あなた達に話す事などありませんよ」と、戦闘力が1~5の人間たちを見下しながら言い放ったのだろう。

そうか・・・そういう事か。

そんな考察を経て、やっとの事でマウスキーはこの小説について納得する事が出来た。

やっぱり、暑いからと言って人を殺すのはよくない、それは人間に非ずという普通の解釈しかできなかった。

そんな難しい話であった。

2017年3月20日月曜日

「マクベス」 ウィリアム・シェイクスピア・作



前回、「ハムレット」について感想文を書いたので、今回は「マクベス」について書く事にする。

ストーリーは、マクベスが魔女の予言と奥さんに後押しされ、国王を暗殺し、自分が王になるという話だ。
結局、国王になったはいいが、不安でいっぱいのマクベスは、魔女に再々アドバイスを求めたり、邪魔な奴を排除したりと、一応は忙しくはしているのだが、良い政治が出来ない。
結局は、暗殺した国王の息子に復讐される、という感じだ。

シェイクスピアの四大悲劇でも、一番にハラハラドキドキしながら読んだ作品である。

物語の見所は、頼りなく、いちいちと奥さんに叱られていたマクベスが、最後になると、奥さんの後押しがなくても大丈夫なぐらい悪役として大成していくところだ。

ちなみに、感激するほどにマウスキーが抱いたマクベスが映像化してあった映画がある。
それは、ポランスキー監督の「マクベス」だ。

こちらである。

他にも色々あるだろうが、俄然、ポランスキー監督の「マクベス」にマウスキーは投票する。

どうやら、好きな本を読んだりすると、映像化してある映画を観たり、舞台を観たり、音楽を聴きたくなるらしい。

ちなみに、ヴェルディの歌劇「マクベス」も、かなりシェイクスピアしている。

ポランスキー監督とヴェルディ以上に、マクベスを表現できる人はいない、今までそう信じてきた。

しかし、最近は、宮藤官九郎の「メタルマクベス」という存在が、物凄く気になっている。
You tubeでチラッと見てみたのだが、これもかなり「マクベス」だったのだ。

やはり、マクベスの物語自体が、陰謀、野心、予言、復讐、様々なドラマを盛り込んでいるため、作品にしやすいのかもしれない。

四大悲劇の中では、一番にエンターテイメントに溢れた話だと思う。

2017年3月18日土曜日

「路傍の石」 山本 有三・作



これを読破するのに、かなり時間がかかった。

それというのも、前半で読む事を挫折して本棚に封印をするのだが、やはり頑張って読んでみようと思って取り出して読み、やっぱり前半で挫折する。

結局、そんな事を数年間繰り返し、いい加減に心を無にして読んだという、思い出深い本である。

話は、主人公の吾一が、子供時代にとても苦労をする話だ。

奉公に出たりなどもするが、最後は1人前の大人になるという、そんな感じだ。

何というか、「ザ・日本の心」という感じだった。

つまり、「おしん」とか、ああいう子供の頃から苦労して、いじめられて、ひたむきに頑張っていく、それ系だ。

それにしても、何故この本の前半で挫折していたかという事を説明しよう。

前半、主人公の吾一の父親が、とても高価なダリアという球根を手に入れて来て、縁側の下に置いておくシーンがある。
そのダリアの球根を見つけた吾一は、何を考えたのか、何かの食べ物だと思って食べてしまうのである。

それを知った父親は、物凄く怒り狂う。

結局、母親が必死に吾一を庇ったため、吾一はとりあえず許される。

もう既にその時点で、「なんで食べちゃうかな・・・」と、切ない気持ちになり、結構辛いのだが、まだまだ吾一の失敗談は続く。

貧乏が故に、母親は封筒作りの内職をしており、吾一が母親の事を想って、封筒作りを手伝うと名乗り出るシーンがある。

ところが、吾一は全てを間違えた手順で封筒を作ってしまった為、母親は無言で吾一が作った封筒を全部剥がして作り直すのである。

吾一は泣きながら、自分が作り直すと母に言うのだが、母は無言で作り直すのだ。

見ていて、本当に辛いです。勘弁してください。

まぁ、とてもリアルだとは思うけれど、物凄く前半で猛烈な眠気が襲ってくるほどのストレスを感じさせてくれる。

リアルすぎるが故に、読み手は吾一と共に数々のくだらない失敗や、人々の小心で嫌味な態度などを耐えながら読み進めなければならないのである。

やはり、苦労話というものは、笑える要素が詰まっている方がいい。

苦労を辛く書いたものや、苦労を辛そうに話すのを聞くのは、未消化なものを一緒に味わった気がして、お腹の調子も悪くなりそうな気持になるのだ。

もちろん、どう感じるかは読み手によっては十人十色だろう。

しかし、この本は貴重な経験だった。

まるで、マラソンを必死で立ち止まらずに完走する事が出来た時のような達成感を読書をで感じさせてもらったのだ。

読み終えた時は、達成感と共に昼寝をしました。

感想をまとめて言えば、苦痛という感動を与えてくれた本である。

2017年3月17日金曜日

「吾輩は猫である」 夏目 漱石・作



これも、例の「本を買ってあげるよ」と言い、本を買ってくれた従兄が選んだ一冊である。

そして、やはり買ってもらったのは姉マウスキーである。

坊ちゃんを読破し、調子に乗ったマウスキーが、「夏目漱石なら読めるのではないか。猫が出てくるし」という理由で読み始めた本だ。

まぁ、猫が出てくるというどころか、猫が語っているのがこの本である。

やはり、「坊ちゃん」と変わらず、とても読みやすかった。

それなりの分厚さはあったが、猫の語り口が面白いし、小学生のマウスキーでもサクサクと読む事が出来た。

ストーリーというストーリーはなかったと思う、確か。

猫の飼い主のおじさんが、奥さんがハゲているのを、しつこい程に気にしているシーンとかは、特に大好きだった。
多分、子供だったから、基本的に「ハゲ」という言葉に反応して大喜びで読んだのだろう。

それにしても、99%読破した時、マウスキーは「吾輩は猫である」は面白いし、好きな本の一冊だ、と思っていた。

そう、最後に1%を読み終えた時、この感想は180度変わった。

今も再読はしていない。

擬人化した動物と言えど、「吾輩」の最期があまりにも衝撃的だったため、好きな本とは言えなくなってしまった。

それまで、楽しくやってきたじゃないか・・・わざわざ吾輩がそんな目に遭わなくてもいいのに・・・

そんなわけで、小学生のマウスキーには、ちょっとスパイスが効きすぎた小説だった。

動物が死んでも、メンタルが傷つかなければ、子供でも楽しく読めるし、とてもおすすめの一冊だとは思う。

でも、やっぱり擬人化していても動物は動物、再読も最後が分かっているから絶対に無理である。

そんな拒否反応が未だに起こる小説が、「吾輩は猫である」である。

2017年3月16日木曜日

「スイミー」 レオ・レオニ・作




子供の頃の教科書に乗っていた話でもあるのだが、大人になってから読んでも、やっぱり感動してしまうという名作である。

話の内容は、小さな魚のスイミーが、仲間と一致団結して自分たちを捕食していた大きな魚を追い払うという話だ。

そして、この話の中で感動するシーンは、スイミーが仲間と一緒に大きな魚に見えるように隊形を組んだ後、赤い魚の兄弟の中で一匹だけ黒い魚のスイミーが言う台詞。

「僕が目になろう」

子供の頃に、ガツンとやられたシーンである。

何度読んだか分からないし、大人になってから絵本まで購入してしまった、この本。

何度読んでも忘れられないこの絵本。

そして、よく見ると訳者が谷川俊太郎だった。
日本語訳でも感動を与える事が出来るわけだ・・・・

そんな大好きな絵本である。

2017年3月15日水曜日

「モルグ街の殺人」 エドガー・アラン・ポー・作




「黒猫」も読んだけれど、今日は「モルグ街の殺人」についての感想を書りつもりだ。

ちなみに、完全ネタバレで感想を書くので、これから「モルグ街の殺人」を読むつもりだ、という人は、読まない方がよろしいかと思われる。

「モルグ街の殺人」は、かの有名な探偵デュパンが登場する話だ。

事件は、ある館の密室で、人間の力では不可能ではないかと思うような、バラバラ死体が見つかり、推理していくという話だ。

何でも、そのバラバラ死体は物凄い力で引きちぎられたような痕跡だという。

そして、結局最後にデュパンが事件を解決するわけだが、なんと、その驚愕の犯人はオランウータンだったのだ!

何だそれ!

人間じゃ不可能ではないかと思う仕業が、そのまんま人間じゃないのか!

大体にして、オランウータンが人間の体を引きちぎって殺すとかいう犯行は、もうチートの世界じゃないのか?!

逆に、確かに犯人がオランウータンなんて誰も思いつかないかもしれない。

常人が推理小説を書こうとした時に、犯人にオランウータンをもって来ようなんて、そんな事は考えないだろう。

しかし、ポーは違う。

やはり、奇才ポーは目の付け所が違うのだ。

確かに、常日頃から思っていたのだが、小細工を弄し、時間と労力を惜しまずに頑張って奔走する犯人の姿は、その努力が目立ってしまい、恐怖を煽らせるのには不十分であるかもしれない。

その為、よくある、「仕方がなかった」とか言いながら殺人を犯すミステリーサスペンスを観て、推理物語に偏見を持ってしまった人には、ポーの推理小説はお薦めかもしれない。

必ず、偏見という二文字を取り除いてくれる事だろう。

ちなみに、マウスキーは面白く読みました。

二度読みました。

二度読んだのに、オランウータンが犯人というシーンで大喜びしてしまうという、浅い読み方で申し訳ないですが、マウスキーはこの話が好きです。

2017年3月14日火曜日

「愛の妖精」 ジョルジュ・サンド・作



タイトルだけで思わず逃げ出したくなるほど、ロマンチックなタイトルである。

読んでみようと思ったきっかけは、ジョルジュ・サンドがどんな小説を書いていたのか、読んでみたかった、ただ、それだけの理由だ。

男装をしていただけに、男が書いたような話なのだろうか、と、いう事も気になった。

話のストーリーは、実はあまりよく覚えていないのだが、少女漫画っぽい話だったと思う。

田園の中で、女の子と男の子が恋愛によって色々成長していく話だったと思う。
他には、二人が仲良くしてたら嫉妬されるとか、そんな感じの事があったりしたと思う、確か。

でも、特に大事件が起こるというわけでもないし、惚れたはれたとか、愛で成長するとか、人間関係の事とか(田園小説なら、そういうのがメインか・・・)そんな感じだった。

時々、読んでいて、誰が、誰だったか分からなくなって、途中で幾度となく挫折しかけた事もあったが、何とか急ピッチで読破。

悲劇的な話ではなかったし、「田園小説って感じだ」と、爽やかな風が何となく吹いたような気がした。

大事件が起こらない恋愛ネタの話を、いかにマウスキーが理解出来ないのかを感じた小説だ。

そして、思った。

ジョルジュ・サンドはとても女性的な人だったのだな・・・まぁ、そうだろうな・・と。

何だか、納得したような気もした。

好奇心は満たされたので、再読はしませんでした。

2017年3月13日月曜日

「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ・作




物語のあらすじは、ウェルテルがロッテという人を好きになるのだが、生憎ロッテにはアルベルトという婚約者がいて、後々にその相手と結婚もしてしまう。

悩むウェルテルは、恋愛もうまくいかない、人ともうまくいかない、当然仕事もうまくいかない、何もかも思い通りにならない。

挙げ句に近くで情痴事件もあり、知り合いの弁護をするが聞いてももらえない。

何もかも思い通りにいかないウェルテルは、最後に自殺をする。

まぁ、そんな風に、ウェルテルがずっと色んな物事に悩んでいる、そんな話だった。

恋愛の話というわけでもない。

とにかく、生活の随所でウェルテルの悩みが絶えないのだ。

そんな印象だった。

深読みは出来なかったが、ロッテがアルベルトを選んだのは、正解なんじゃないか、という感じだった。

ウェルテルが遺書にロッテの名前を書き記すというところなどは、読んでいて、「やっぱりな。こういうやつは無駄に自尊心が高いんだ」と、怒りを感じる所すらあった。

自分は可哀想な感じで死ぬが、残されたロッテはどうだろう?

遺書が他人の目に読まれた時、ロッテはどんな風に思われるだろう?

思いやりが欠片もない男、それがウェルテルである。

自分の悩みでいっぱい、いっぱいなのだ。

だが、それも、若さゆえだろう。

つまり、ロッテも、アルベルトも青春を越えて大人になったのだ。

しかし、ウェルテルは青春のまま生きていた。

その温度差による悲劇だ──。

ウェルテルを見ていれば、きっとみんな大人になり、自分の悩みを克服できるであろう。

ちなみに、再読はしないが、オペラは聴いた。

オペラの「ウェルテル」は割りと好きです。

2017年3月12日日曜日

「オオカミ王ロボ」 シートン・著



忘れもしない・・・・。

マウスキーが本を嫌いになった原因の話が、「狼王ロボ」だった。

この本との出会いは、マウスキーが幼稚園の年中ぐらいの時である。

本棚にあった、「名作シリーズ」という児童書の中から、退屈しのぎにどれか読もうと思い、本を手にしたのだ。

そして目に止まったのが、この本だ。

きっと、狼の王様が国を統治している話に違いない・・・そんなメルヒェンの中に住んでいた頃だ。

話としては、全く違う。

天才狼のロボは、どの狼よりも強く、頭が良かったため、村を幾度となく襲われる村人に脅威であった。

そこら辺の狼とはケタ違いに頭がいいので、どんな策や罠を仕掛けても、全部見抜いてしまうのである。

とうとう、村人は、この狼に懸賞金をかけ、お尋ね狼にしてしまうほどだ。

そして、賞金稼ぎがやって来て、狼王ロボと知能戦を繰り広げる。

賞金稼ぎは、狼王ロボの奥さん狼を罠で捕まえ、その死体を使って最後はロボを捕獲するのだ。

子供のマウスキーは、人間への怒りでいっぱいになり、ロボの不幸に涙したものだ。

ロボの運命を思い、人間に生まれた事を呪うほどであった。

しかし、実際はどのような本だったのかが気になり、最近手に取って、改めて理解する事が出来た。

実に面白かったし、そんなに泣くほどではなかった。

寧ろ、人間と並んで懸賞金がかけられる狼なんて、凄すぎるのではないだろうか?

そんな、壮絶な人と狼のプライドをかけた戦いを、淡々と語っている、とても面白い話であり、再読という事は大事だと感じさせられた一冊である。

2017年3月11日土曜日

「燃えよ剣」 司馬 遼太郎・作



この本は、本当に面白かった。

本を読むペースがカクダンに遅いマウスキーですら、あまりの面白さに一気読みしてしまったほどだ。

もちろん、全てを読み終わった時に、なんて事をしてしまったんだ・・・と、自分のしでかした事に気が付いた。

本は一気に読むより、ぼちぼち読んで楽しみを長引かせる方がいい。

挙げ句の果てに、新選組のなれの果ては、よくよくご存じだというのに、何を急いで読んでしまったのだろう・・・。

そのぐらい、我を失い、没頭して読んでしまう面白さであったという事だ。

司馬遼太郎の物語力、これは最強だ。

創作の物語ではなく、誰もが知っている歴史的な話を、どうしてこんなに面白く小説にする事が出来るんだろう・・・

遅くなったが、ストーリーのざっくり説明をしておこう。

これは、武士道を重んじる、最強を誇る剣士が、大儀のために出世街道を駆け抜け、新選組という幕府を守る団体を組織して、幕府の平和と安全を守るために日夜頑張っていく漢たちの話である。

そんな組織の中で、ロマンスあり、アクションあり、裏切りあり、様々なドラマ模様が繰り広げられる。

そして、最後は歴史の通り、幕府は破れ、新選組もなくなってしまう。

それにしても、お約束の「池田屋事件」のシーンを、まさか、あれほど「待ってました!」「ついにか、やった!」と、大喜びしながら読む事になるとは思わなかった。

もう、司馬遼太郎の筆にかかったら、お馴染みすぎて退屈しそうな出来事ですら、まるで知らなかった新しい情報のように読む事が出来る。

しかも、文章や描写がメチャクチャかっこいいのだ。

多分、司馬遼太郎の小説は、これからも「読んだ」と、カウントしていく冊数が増えていくと予感する。

それほどまでに、惚れた一冊である。

2017年3月10日金曜日

「神曲~地獄篇」 ダンテ・作




有名なダンテの「神曲」である。

しかも、「地獄篇」限定で読んだ。
言い訳ではないが、これには理由がある。

姉マウスキーがマウスキーの先に読んだのだが、姉マウスキー曰く、「天国篇が一番面白くなかった。天国篇は、灯り付け係みたいな天使がいて、位が高くなればなるほど灯りが明るくなるだけだった」と、言うのである。

それは確かに、読んでもつまらないな・・・と、判断したマウスキーは、天国篇は挿絵だけ見て満足したのである。

ちなみに、煉獄篇は存在を忘れていた。

全く罰当たりな事をしたものだ。

しかし、わざわざ煉獄篇と天国篇を後々に読もうという事もなく、タイミングを逃し、このような中途半端な読破で終わったわけだ。

ストーリーは、主人公が地獄や天国を観光するという物語である。

「地獄には、罪に応じて、色んな罰があるんだね」とか、「思ったよりも組織的に機能してるんだ」とかを学んでいく。

本当に地獄のガイドブックのように、その場所を主人公と同じように「へーえ」と読み進めていく事が出来る本だ。

ちなみに、あんまり真に受けると「神様なんているわけないだろ」と、反抗的な気持ちになるので、物語として読んだ方がいいかもしれない。

傲慢の罰のシーンは、歴史的傲慢な罪人が業火でこれでもかと焼かれているのだが、本人は「こんなので焼いても熱いだけだし、反省するわけないだろ」と、なかなか突っ張った事を言っているのだ。

確かに・・・神様もイソップ物語の「太陽と北風」を読むべきだ・・・。

そんな風に感じる自分は傲慢だろうか・・・と、負のスパイラルに陥ってしまうかもしれない。

そう、神曲読破失敗したマウスキーは、この地獄篇のインパクトから今も抜け出せないでいる。

やはり、読むなら三部作まとめて読むのがいいのだと思う。

マウスキーも、死ぬまでには、完全読破を目指したいとは思っている。

2017年3月9日木曜日

「分身」 ドストエフスキー・作




「分身」だと思っていたところ、マウスキーが読んだ本のタイトルには「二重人格」と訳されていたようだ。

まぁ、いい。しっくりくる方を選んで、「分身」のままにしておく。

ストーリーは、ドッペルゲンガーのような話だ。

冴えない中年男ゴリャートキン氏が主人公である。

ゴリャートキン氏は、役人なのだが、仕事は出来ない、空気は読めない、いつもぼっち、出世もしない、ずっと独身で、挙げ句に割とハゲている、そのぐらい冴えない中年男性だ。

ところが、ある日、同じ仕事場に同姓同名で、背格好がまるで同じのゴリャートキン氏がやって来てから、大きく変わる。

そっくりさんのゴリャートキン氏は、それはまぁ、割りとハゲてはいるが、仕事は出来るし、気の利いた事も言えるし、仕事でも上司に気に入られて出世していくタイプなのだ。

そして、どんどんゴリャートキン氏の精神状態、生活は乱れ、とうとう最後には精神病院へ送られてしまう、そんな感じのあらすじだ。

ちなみに、ドストエフスキーの小説の中では、「悪霊」の次に好きな話だ。

なんというか、ゴリャートキン氏の中二病心溢れる行動と言動に、深く共感してしまったものである。
正に中二の頃に。

初めての場所になかなか入れないゴリャートキン氏が、長い時間ずっと入口のところをうろうろしていて、過去の偉人の格言なんかを思い出して自分を鼓舞したりする描写のところは、特に大好きなシーンである。

この本だけは、何度再読した事だろう・・・・。

愛読書と言っても過言ではない。

いまだに中二病にかかりそうになった時は、この本の事を思い出し、「いや、大人になろう」と生きる姿勢を変えられるのだ。

そんな人生のワークブックと言っても過言ではない、この一冊。
それと同時に、ドストエフスキーの文章に惚れた一冊である。

2017年3月8日水曜日

「禁色」 三島 由紀夫・作




三島由紀夫を読もうと思った時、それほど長くなくて、有名作であるという理由から、こちらを読む事にした。

途中で色々と混乱するかもしれない挙げ句に、結局のところ「よく分からんかった・・」という感想を持つのではないか、と思ったのだが、どうしても三島由紀夫の文章を読みたいという思いで、頑張って読む事にしたのだ。

読み始めてみると、特にそんなに難しい事はなかった。

ちなみに、難しいのは文章ではない。

知っている人は知っているかもしれないが、禁色には多数の男の同性愛者が登場してくるのである。

同性愛の道理がよく分からずに、同性愛者が出てくる映画なんかでは混乱していたりしていたので、本を読むにあたり、その事が心配だったのだ。

ところが、さすがは三島由紀夫。

ストーリーは、物凄くブサイクな男が、同性愛者の物凄い美青年を利用して、自分を振った女どもに復讐をしていくという話だ。

確かに、これほど酷い、当たり所のない復讐はないとは思うのだが、結局のところ、この振られ男は、顔がブサイクだからと振られたわけではなく、最早性格からしてブサイクだから振られたんだろうな、思った。

まぁ、世の中そうに違いない。顔がブサイクだから振るなんて、物凄く顔のパーツを重視していて、一般的バランスの数値がちょっとズレている人が無理だと言っているようなものだ。

そのぐらい、この美青年を利用して復讐をしているブサイク男は性根が腐っているのである。

いや、読んでいる時は、その性格、根性の悪さが寧ろ痛快に思えて読み進める事が出来るのだ。

他に読んでいて印象に残ったのは・・・それなりに、美青年も同性愛者だし、男の恋のトライアングル的なものもあったと思う。

それも、実はそんなに気にならなかった。

名前は男の名前だけれど、台詞とか行動がそんなに女と変わるわけではなかったので、本当に気にならなかった。

そう、要は男も女も関係ないのか。

人に真摯であるか、否か。そうに違いない。

ちなみに、あまりよく覚えてはいないのだが、最終的に、復讐の手先になっていた美青年は、そういう事はやっぱり身も持たないし、やめます、みたいにやめたと思う。

復讐の一環で美青年は女の人と結婚していたのだが、家庭を顧みずに復讐のためだと言いながら他の女を誘惑するわ、同性愛バンザイと密かに満喫して浮気はするわ、本当に酷い新婚生活ぶりだった。

そんな奴は当然、いくら顔のパーツが素晴らしい比率で整っていたとしても、性根が最低だと振られます。

そんな、世知辛い話だった。

ついていけないんじゃないかという不安もなく、サクサクッと面白く読めた本で、ちょっと理解不能なところは、その箇所は再読したかもしれない。

やはり、さすが三島由紀夫だった。その一言である。

2017年3月7日火曜日

「北欧神話」 K・クロスリィ=ホランド・著



ついに書いてしまうのか・・・と、勿体なく思うほど、マウスキーが大好きな本である。

これを読んだのは、中学二年生の頃だった。

ちなみに、「北欧神話」の中でも、特にこの本が面白かった。

北欧神話に関係する、昔のヴァイキングなどが持っていた道具などの写真付き説明や、北欧神話の信仰についての解説をしながら神話のストーリーが語られているのである。

何がそんなに魅力なのかと言うと、やはりロキのキャラクターである。

ロキの小さな悪戯が、ちょっとした悪事になり、最後は国をつぶすための反逆者となるほどの大悪党に成長していく姿が面白いのである。

最後は何もかもなくなるが、再び再生するであろう・・と、いう、もの〇け姫的な終わり方をする。

多分、この本が特に訳もマウスキーの好みだったのだと思うが、ふとした時に「あのエピソードが読みたい」という、再読心も感じさせてくれる。

もちろん、今でも本棚に抱えている愛読書の一つである。

2017年3月6日月曜日

「変身」 フランツ・カフカ・作



ストーリーのあらすじは、主人公が、ある朝目が覚めたら虫になっていた、という衝撃的なところから始まる。

そして、何の疑問も抱かない主人公の家族は、虫になってしまったのだと、ショックを受ける。

どうやら、大きくて、ムカデみたいな危険な虫になったみたいなので、部屋から出ないように監禁して、食事を運んだりなどの世話をするのだ。

その内、主人公も虫として、段々順応しはじめていくのだが、一度部屋からフラリと出てしまったがために、家族の怒りを買ってしまう。

そもそも、人間が虫に変身するだろうか、と、家族は言い出すのだ。

読んでいて、まず驚くのが、ここだ。

それは最初に抱く疑問だろ?

寧ろ、今まで主人公が変身したものだと信じて、嫌がりながらも世話してた方が相当変態ではないのだろうか?

だが、主人公の家族は、虫になった主人公を再び部屋に監禁すると、「これはただの虫だ」と、結論づけ、飼育放棄する事にするのだ。

そんな話だった。

短編で、読みやすいので、サクサクッと読めるのだが、読んだ後に胸がモヤモヤする、そんな話だった。

楽しみのために読む本ではないというのは確かである。

ちなみに、読者側としては、主人公の虫なりについての様子を読んでいると、次第に「なんだ、こいつ。可愛い奴め」と、虫に愛着すら感じてくるのだ。

それが、カフカ・マジックなのか──。

そんなマジックを彼が持っているのかは知らないが、おぞましいはずの虫にも関わらず、読者に愛着を感じさせる事が出来るのである。

そして、正当な事を言っているにも関わらず、「そもそも、人が虫になる事はない」と、今更感が半端ない発言で、一生懸命に生活をしている主人公の家族たちを読者の敵にする事が出来るのだ。

あの短編の中で、これほどまで読者の心をたくみに操るとは・・・・。

しかし、だからと言って、好きな作品という事にはならない。

マウスキーは人の悲劇なら読む事は出来るが、無抵抗な生き物が可哀想な目にあう話はとても読んでいられないのである。

そのため、再読もしていないのだが、読み手側に色々な解釈をさせてくれる本なのだろうし、様々な哲学的な思想をする事が出来る、とても素晴らしい小説だと理解はしている。

でも、やっぱり再読はしないだろう。

2017年3月5日日曜日

「代替医療解剖」 サイモン・シン・著



本の紹介文の、「ワシントンは瀉血が信じられていた為、血を抜かれ過ぎて死んだ」というだけでも、「WHAT!?」と叫んで、この本を手に取りたくなってしまう事だろう。

ちなみに、マウスキーが読んだきっかけは、そうではない。

姉マウスキーがサイモン・シンの愛読者であり、「絶対に面白い」と執拗に薦めてきたのである。

そんな熱意が一年、二年ほど続いたであろうか・・・。

とうとう、マウスキーはこの本を手に取る事となったのだ。

そういうわけで、これはセールスと同じかもしれない。
その時、断られたからと言って、諦めるな。人のニーズは変化するのである──。

そんなわけで、感想だが、滅茶苦茶面白かった。

本当に勉強になるだけではなく、日本に生まれて良かった、日本の福祉サービスを受けれて本当に良かったと、自国愛が深まるきっかけにもなるであろう。

これほど多種多様な民間療法を科学的に調査しているという事も、大変面白く興味深いものである。

見出しの瀉血についても、相当長い何百年という間信じ続けられていたという事が、これまた信じ難いものである。

あの屈強で大男のワシントンが死ぬきっかけになった、当時の正当な医療が瀉血であったと考えると、とても恐ろしく思える。

ちなみに、著者のサイモン・シン氏の文章も素晴らしいのである。

そして、何かと手に取って気になる部分を読み直したり、再読してみたくなる、そんな一冊だった。

2017年3月4日土曜日

「ごんぎつね」 新実 南吉・作



名作中の名作である。

今はどうかは知らないが、マウスキーが子供の頃は小学校の国語の教科書に載っていた。

その時、「人を感動させる」事についての深さを勉強する事が出来た。

つまり、人の感情を強く突き動かす事を、感動というのだと、子供のマウスキーは知った。

あらすじは、ざっくりとこんな感じである。

主人公の平十という男が、病気で死にかかっている親のために、ウナギを用意して、食べさせてあげようとしている。

そこへ、ごんぎつねがやって来て、うなぎで遊ぶか、盗ろうとしてか、とにかく台無しにしてしまうのだ。

結局、平十の親は死んでしまう。

それを知った、ごんつねは、自分のしでかしてしまった事に気づき、深く反省する。

それから、毎日のように、お詫びとして平十の家に、こそっとプレゼントを持っていくのだ。

だが、正体を明かす事はしなかったので、平十は誰が持ってきてくれているのか、さっぱり見当もつかない。

そんなある日、ごんぎつねがプレゼントを持ってきたところを、とうとう平十に見つかり、ウナギ泥棒の狐だと知った平十が、その場でごんぎつねを射殺してしまうのだ。

そして、殺した後に贈り物に気づき、「お前だったのか・・」と、ショックを受ける。

おしまい。

そんな感じの話である。

子供のマウスキーは、教科書を床に叩きつけるほど怒り心頭し、一番嫌いな物語の一つとしてカウントした。

その後の平十の罪悪感や、寂しい暮らしなんかが予測されても、それはどうでもいいし、狐殺しを平十の罪の美談のように語られたら、たまったものではない。

そんなわけで、本を読み終わり、何故わざわざこんな腸が煮えくり返る思いをしなければならないのか、と考察したわけだ。

そこで、気づいたのだ。

「感動」という言葉について。

激しい怒りも、感情を強く突き動かされた結果であり、「ごんぎつね」には、それだけの力があるのだと。

生ぬるい、みんなで仲良く話なんかよりも、子供が読んだら心が育つ話だったのだと今は感じる。

そんな名作「ごんぎつね」だが、大人になった今でも、好んで再び読みたいとは思わない。

それは、今も腹を立てる事が予測されるからである。

2017年3月3日金曜日

「雪国」 川端 康成・作




「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

全てを読み終わった時、覚えていたのは、この一文である。

確か、主人公が宿に行き、綺麗な女の人と惚れたはれたと、耽美な世界があった気がするのだが、とんと思い出せないのだ。

本の説明文を読んでも、「そうだったかな?」と、思うほど、読んだわりには思い出せない。

多分、ぼーっと読んで、その雰囲気を体感する事が出来る系だったのかもしれない。

それでも思い出せない。

だが、何といってもこの小説は最初の一文である、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」──この一文こそが全てを物語っていると思う。

誰もが知っている一文を作れ、と、言われて、人は作る事が出来るだろうか?

色々と考えてみても、そんな一文に出会う事はない。

そういうわけで、内容を思い出すために再読する事はないであろうと思う。

2017年3月2日木曜日

「アーサー王物語」



実は、マウスキーが読んだのはこの本ではない。

くまなく探してみたのだが、もはやAmazonにも姿を消してしまったので、紹介する事は出来なかったのだ。

とりあえず、「アーサー王物語」を読んだ、という事について書かせてもらう。

感想としては、ザ・ファンタジーな内容だった。

ところが、読んだという記憶が、「アーサー王物語」だけはすっ飛んでいるのだ。

これには苦い思い出がある。

もう少しで読み終わると思っていた時、何を考えていたのか、マウスキーは一時席を立つ時に、ストーブの上に文庫本を置いて退席したのだ。

部屋に戻ってみると、アーサー王物語は、もくもくと煙を立てて燃えていた。

ピンチを感じると、人の心とは無になるものだ。

こんな事で火事にしてはならない、マウスキーは決死の鎮火に大成功。

しかし、「アーサー王物語」は半分は燃えていて、真っ黒になっていた。

読むどころじゃない。

再び買って読むか、図書館で借りて読むか・・・・

そして、未だに全部読んでいない。

燃え盛る文庫本を瞼に思い出すたびに、ゾッとする。
それこそマウスキー家における伝説物語が一個出来上がりかけていたのだ。

そんな曰くある物語、それが「アーサー王物語」である。

死ぬまでに克服出来たら、読むかもしれない。

もし読んだら、また記事に書いて投稿すると思う。

どちらかと言うと、こういう雑学本を読む予感。

くれぐれも、火の元には気をつけて下さい。
本はとてもよく燃えるので。

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